常滑を詠む 基礎知識 後編

千年の歴史を持つ常滑窯は、日本六古窯(瀬戸、信楽、越前、丹波、備前、常滑)の一つで、その中で最も大きな生産地でした。平安時代には既に日常生活で使われていた甕や壺などが焼かれ「古常滑」と呼ばれています。
江戸時代末期には、鯉江方救が登窯を完成させ、鯉江方寿が土管の基礎を築きました。また、常滑焼を代表する急須の生産もはじまりました。
明治・大正時代には、土管とともにタイルの一大生産地となり、焼き物のまちとして確固たる地位を確立しました。

13.江戸時代の常滑焼

江戸時代の常滑村(現在の保示(ほうじ)・市場・山方・奥条地区)と瀬木(せぎ)村(瀬木地区)、北条(きたじょう)村(北条地区)の三ヶ村で焼かれたものを常滑焼と呼ぶという記録があります。そして、江戸時代を通じてもっとも窯の数が多かったのは北条村で、最盛期には11基の窯がありました。

14.江戸時代の窯

江戸時代は室町時代の大窯と同じ構造の窯が使われていましたが、その末期にあたる天保年間には連房式登窯(れんぼうしきのぼりがま)という新しい窯が導入されました。この登窯ではすべての製品を高温で焼き上げることができます。それに対して大窯では窯の中の温度が不均一で、高温で焼ける部分と温度が上がらない部分ができます。そこで低温になる部分には赤物(あかもの)と呼ばれる素焼(すやき)の製品が窯詰(かまづめ)されていました。

■連房式登窯

安土桃山時代に朝鮮半島から新たに九州唐津(からつ)の地に導入(どうにゅう)されたとされる登窯。焼成室が階段状につながった構造で効率良く高温焼成ができます。

連房式登窯

15.真焼(まやけ)と赤物

江戸時代の常滑焼には真焼物(まやけもの)という硬く焼き締まったものと赤物と呼ばれる柔かな素焼の製品があります。真焼物は甕や壺が中心で、その他に徳利や急須(きゅうす)、置物のような小型の製品が江戸時代の後半に加わります。一方、赤物は甕のほかに火消壺(ひけしつぼ)、蛸壺(たこつぼ)、焜炉(こんろ)、蚊遣(かや)りなどが作られています。赤物は衝撃にも強いことから、中で火を使う道具として多く作られています。

■急須

現在は「キュウス」と読みますが、江戸時代には「キビショ・キビショウ」と読んでいました。その言葉のルーツは中国南部で焜炉(こんろ)に掛(か)けて酒を暖(あたた)めたるのに用いた「キップショ」にあると考えられます。中国でお茶を出す道具は「茶壺・チャフー」と呼んでおり、この道具を火に掛けることはほとんどありません。日本でも急須と書かずに「茗壺(めいこ)」と箱書きすることがありますが、これは「茶壺」と同じ意味の言葉です。

急須

16.港と常滑焼

瀬木から北条にかけての沿岸が港になり、ここから多くの常滑焼が積み出されていました。港には焼物置場があり、瓶仲買衆(かめなかがいしゅう)と呼ばれる商人が、その流通を取り仕切っていました。すでに室町時代以来、常滑の焼物は伊勢湾周辺から関東地方にかけて流通するようになっており、西日本や日本海方面には流通しないようになっています。江戸時代になっても、やはり江戸を中心とする関東地方と伊勢湾周辺が常滑焼の大きな消費地でした。そして、この時代には熊野、三河地方から船で燃料を運びこんでいました。

17.名工と呼ばれる人々

江戸時代の後半になるとようやく焼物を作っていた人の名前が作品に彫り込まれるようになります。その最初は渡辺弥兵衛(わたなべやへえ)という人で、献上(けんじょう)した作品のできが良かったため尾張藩主から常滑元功斎(とこなめげんこうさい)という名前をもらいました。総心寺(そうしんじ)の住職(じゅうしょく)として常滑に来た青州和尚(せいしゅうおしょう)は茶道具の作り方を知っており、常滑の陶工にその方法を教えました。青州和尚に教えを受けて名工となった人物に伊奈長三(いなちょうざ)、赤井陶然(あかいとうぜん)がいます。また上村白鴎(かみむらはくおう)は名古屋や京都の文化人と交流があり、味わい深い作風とともに名声を高めた人物です。

18.急須のはじまり

江戸後期ころから流行しはじめた煎茶(せんちゃ)は末期になって一層盛んになってきました。常滑では稲葉庄左衛門(いなばしょうざえもん)という人物が古い急須の絵を集めた本を入手(にゅうしゅ)して文政年間に作り始めたとされています。その後、天保年間に二代伊奈長三が板山(いたやま)で白泥土(はくでいつち)を発見し、その土に乾燥させた海藻(かいそう)を乗せて焼く「火色焼(ひいろやき)」を開発しましたが、この藻掛(もが)けの急須が江戸の遺跡で出土しています。さらに幕末の安政元年には杉江寿門堂(すぎえじゅもんどう)が朱泥急須(しゅでいきゅうす)の創出(そうしゅつ)に成功しました。

■火色焼

板山から採掘した土のなかに白く焼きあがる土を見つけた二代長三は、この白泥土(はくでいつち)に乾燥したコアマモ(甘藻の一種)という海藻(かいそう)を巻きつけて焼くと、白い地肌(ぢはだ)と海藻の塩分が赤く発色することで美しい焼物ができあがることを発見しました。そして、これを「火色焼(ひいろやき)」と命名しましたが、その後、「藻掛(もが)け」という呼び名が普及し「火色焼」は使われなくなりました。

火色焼

19.朱泥急須について

朱泥(しゅでい)は中国江蘇省(こうそしょう)の宜興(ぎこう)という窯業地(ようぎょうち)で焼かれている紫砂(しさ)という無釉(むゆう)の焼物を手本にしたものです。この紫砂で作ったティーポットは、お茶の香りがもっともよく出るとされ、中国では高く評価されていたものです。そして、江戸時代には長崎を通して日本にも輸入されるようになりました。常滑にいた平野忠司(ひらのちゅうし)という医者は煎茶を愛好し、その道具も集めていました。そして、そのコレクションに宜興の紫砂製品もありました。彼は当時常滑で腕のたつ陶工であった杉江寿門堂に紫砂ティーポットを見せて、常滑でもこれと同じようなものができるのではないかと相談し、試行錯誤(しこうさくご)の結果、その完成を見たのが安政元年でした。二代寿門堂は父親の功績(こうせき)をたたえる石碑(せきひ)を天神山に建立しています。

20.明治維新と常滑焼

江戸時代は株仲間(かぶなかま)の制度によって焼物も仲間以外の人々は新たに参入することが厳しく制限されていました。ところが明治維新(めいじいしん)によって古い規制が廃止され、新たに焼物生産を始める人が増えてきます。鎖国をやめて開国し、近代化を進めた明治新政府のもとでは輸出産業が奨励され、新たな製品の需要が生み出されました。その代表は近代土管です。

■土管

土管という言葉は英語のEarthenware pipeつまり土器の管という言葉を日本語に直訳して生れた言葉です。材質は土器より陶器に近いために、昭和戦後期には陶管という言葉を用いることが多くなりました。そして、セラミック・パイプという言葉も使われるようになっています。

木型を用いた土管の製造工程

21.近代土管の成立

江戸後期には土樋(どひ)と呼ばれる赤物の土管が常滑で作られていましたが、それは軟質で寸法も不揃(ふぞろ)いなものでした。明治になって都市の下水道が必要になると近代土管の需要(じゅよう)が急速に高まりました。近代土管は硬く焼き締まった頑丈なもので、規格が統一されていることが求められました。硬く焼くことは真焼物(まやけもの)を焼く技術で問題なく解消できますが、規格化には難題がありました。

それは、土管の接続部分の形が直角に折れ曲がるもので、この形をそろえ大量に作ることは、これまでの常滑の職人がやったことのないことでした。この難問を常滑に持ちかけたのは、横浜の外国人居留地(がいこくじんきょりゅうち)の計画を請け負ったお雇(やと)い外国人のブラントンという人です。そして、その話に乗ったのは常滑の鯉江方寿(こいえほうじゅ)でした。方寿ははじめ腕の良い職人(しょくにん)をえらんでブラントンの設計図通りの土管を作らせ硬く焼き上げて横浜に届けましたが、ブラントンは接続部分の形が設計図と違っていて不揃(ふぞろ)いであることから、その製品を不合格にしてしまいました。そこで方寿は工場の職人と相談し、木型(きがた)という道具を作り、この道具を使って同じ形の土管を作ることに成功しました。明治5年から6年にかけての出来事でした。その後、鉄道が普及するのにしたがい、線路下の灌漑用水(かんがいようすい)を地下に埋設(まいせつ)する必要がうまれ、汽車(きしゃ)が上を走っても割れないような丈夫(じょうぶ)な土管が大量に生産されるようになりました。

22.輸出用陶器の生産

明治10年代になると常滑でも輸出品(ゆしゅつひん)を作る試(こころ)みが盛(さか)んにおこなわれました。そして、最初に成功したのは朱泥龍巻(しゅでいりゅうまき)とよばれる製品です。朱泥土(しゅでいつち)で作った花瓶(かびん)や花台(かだい)の周囲にレリーフ状の龍を巻きつけた装飾を施(ほどこ)すのでこの名があります。龍の部分には出荷される前に神戸で金箔(きんぱく)が貼(は)られたり、漆(うるし)の装飾(そうしょく)が施されたようです。そして、大正時代になると陶漆器(とうしっき)とよばれる製品が朱泥龍巻に代わって常滑の輸出品の代表になります。瓦のように燻(いぶ)し焼きにした素地(きじ)に漆を塗(ぬ)り装飾を施したものです。さらに昭和になるとティーポットやノベルティなどが盛んに生産されました。

23.常滑の焼物教育

明治11年、鯉江方寿は名古屋に中国宜興のティーポット製法を知っている中国人がいるという話を聞き、常滑の自宅に招(まね)いて、その技法を常滑の陶工(とうこう)に伝授(でんじゅ)してもらうことにしました。その中国人は金士恒(きんしこう)と言い、教えを受けたのは杉江寿門堂や四代伊奈長三たちでした。また、明治16年になると方寿は工場の一角を美術研究所として、常滑の若者に西洋式の美術教育を受けさせました。

その先生として招かれたのは内藤陽三(ないとうようぞう)と寺内信一(てらうちしんいち)でした。彼らは東京の工部美術学校でイタリア人彫刻家のラグーザに教えを受けた若者でした。その後、明治29年には工業補習学校が設立され、やがて常滑陶器学校、工業高校へと変遷していきます。そこでは近代窯業が教えられるとともに、平野六郎(ひらのろくろう)や井上房太郎(いのうえふさたろう)といった人々が彫塑(ちょうそ)や絵画を教え陶業(とうぎょう)、陶芸(とうげい)両面の人材を育成してきました。

24.煉瓦煙突と石炭窯

明治33年、これまで薪で焼成していた常滑の窯屋連中(かまやれんちゅう)は同業組合を結成しました。そして、組合の新たな取組みとして石炭(せきたん)による陶器焼成の試験を行いました。薪の値段がしばしば高騰(こうとう)し、燃料代が安定しないのが石炭焼成の窯を試験する契機(けいき)になっていますが、石炭の窯は、その構造が日本の伝統的な窯とは根本的に異なり、高い煙突(えんとつ)で窯の中に気流を生み出すものです。工業補習学校の校長をしていた横井惣太郎(よこいそうたろう)と名古屋の森村組の技師であった飛鳥井孝太郎(あすかいこうたろう)が中心となってドイツ系の倒炎式石炭窯(とうえんしきせきたんがま)を築(きず)き良好な成績をおさめました。その後、常滑ではこの構造の石炭窯が急速に普及(ふきゅう)し、大気汚染(たいきおせん)が問題となる昭和40年代まで常滑は石炭を燃やす黒煙(こくえん)が街(まち)を覆(おお)っていました。

煉瓦煙突

25.帝国ホテルの建築陶器

大正12年の秋に竣工式(しゅんこうしき)を開いた帝国ホテルは、世界的に有名なアメリカ人建築家F.L.ライトが設計した建築で、その内外を大谷石(おおやいし)とタイル・テラコッタが覆っていました。明治以後の近代建築はヨーロッパにならって煉瓦積みで建てられていました。ライトは帝国ホテルでコンクリート工法を採用しましたが、竣工式の日に関東地方を襲(おそ)った関東大震災(かんとうだいしんさい)で煉瓦建築が瓦解してしまったのに対し、ライトの帝国ホテルはその勇姿を保っていたことから、その名声は伝説ともいえるほど高まりました。この帝国ホテルで使われたタイル・テラコッタは大正時代に常滑で焼かれたものでした。その後、大震災の教訓から鉄筋コンクリート工法による建築が急速に普及し、それにともなって建築用の陶器生産が常滑の窯業の重要な柱となっていきました。

テラコッタ

26.陶芸作家の輩出

戦後の経済成長にともない伝統工芸や前衛陶芸(ぜんえいとうげい)など多彩(たさい)な分野の陶芸作家が登場してきました。1970年に開催された大阪万博(おおさかばんぱく)では常滑の若手作家が協同して「月の椅子(いす)」という前衛的な彫刻でありベンチにもなる作品を制作し、その集団は市内の公共建築にも多くの作品を残すようになりました。また、伝統の分野では三代山田常山(やまだじょうざん)が1998年(平成10年)重要無形文化財(人間国宝)に指定され常滑焼の急須の歴史に新たな時代を築きました。