常滑を詠む 基礎知識 前編

千年の歴史を持つ常滑窯は、日本六古窯(瀬戸、信楽、越前、丹波、備前、常滑)の一つで、その中で最も大きな生産地でした。平安時代には既に日常生活で使われていた甕や壺などが焼かれ「古常滑」と呼ばれています。
江戸時代末期には、鯉江方救が登窯を完成させ、鯉江方寿が土管の基礎を築きました。また、常滑焼を代表する急須の生産もはじまりました。
明治・大正時代には、土管とともにタイルの一大生産地となり、焼き物のまちとして確固たる地位を確立しました。

1.常滑焼の始まり

西暦1100年頃(平安時代末期)に知多半島の丘陵地を利用して焼物を焼く窯(かま)が築(きず)かれるようになりました。それらの窯では釉(うわぐすり)を掛(か)けずに粘土を焼き締(し)めた碗(わん)や鉢(はち)、壺(つぼ)、甕(かめ)などが焼かれ、その中でも甕や壺にこの地域の特徴が現れています。

2.だれが始めたものか

日本では陶工の名前が作品や文書に現れるのは安土桃山時代からで、それ以前の焼物はだれが作ったものか記録がありません。伝説として藤四郎(とうしろう)という人物が中国で習った技術を試験した跡というものがありますが、現在の研究でその伝説は完全に否定されています。

3.技術はどこから伝わったものか

平安時代には名古屋市の東部丘陵から愛知郡、そして豊田市にかけての丘陵地で灰釉(かいゆう)を掛けた陶器がさかんに生産されていました。この産地を猿投窯(さなげよう) と呼んでいます。猿投窯で開発された高度な陶器生産の技術が平安時代の末期になると瀬戸や知多方面にも広がって行き、新たな要素が加えられたものと考えられています。

■猿投窯

猿投山(さなげやま)の西南麓(せいなんろく)にひろがる窯跡(かまあと)で西暦5世紀、古墳時代(こふんじだい)の須恵器(すえき)の窯から平安時代の灰釉陶器(かいゆうとうき)、そして鎌倉時代の山茶碗(やまぢゃわん)の生産まで陶器生産を行っていた窯場(かまば)です。窯跡(かまあと)は現在の名古屋市東・南部から愛知郡、西加茂郡(にしかもぐん)、豊田市にかけて広く分布しています。とりわけ平安時代の灰釉陶器生産は盛んで全国の古代遺跡から発見されています。

4.はじめはどんな窯で焼かれていたか

丘陵の斜面に沿うように地下に傾斜したトンネルを掘り、その穴の中に焼く前の品物を入れ、下の方で薪(まき)を燃やし、焔(ほのお)をトンネルの中に送りこむという構造の窯がはじめの窯です。その特徴から窖窯(あながま) と呼ばれています。そして、この窖窯は現在の東海市・大府市から南知多町にいたるまで知多半島の全域で築かれていました。その数は3000基以上とも言われています。

■窖窯(あながま)

古墳時代に陶器を焼く施設(しせつ)として朝鮮半島から伝わりました。傾斜面の地下にトンネルのような部屋をつくり、その中に製品を入れ下で薪(まき)を燃(も)やして焔(ほのお)を焼成室(しょうせいしつ)に送り込む構造の窯です。

窖窯

5.薪・粘土・地層

窯が掘られているのは常滑層群(第3紀鮮新世(せんしんせい)) といわれる地層で粘土層と砂層が重なった地層です。窯の周辺で採掘(さいくつ)される粘土は陶器の原料にできることがわかっていますが、昔の人がどこで粘土を掘ったのかはわかっていません。窖窯の焼成には大量の薪が必要でした。その薪は窯の周辺に生えている樹木を伐採して使ったと考えられます。窯跡(かまあと)からは燃え残った燃料の炭が発見されますが、それを顕微鏡(けんびきょう)で観察すると松や樫(かし)、椎(しい)などが燃やされていたことがわかります。

■常滑層群(第3紀鮮新世)

およそ650万年前(第3紀中新世末期(ちゅうしんせいまっき))から250万年前(第3紀鮮新世後期(せんしんせいこうき))にかけて東海湖(とうかいこ)とよばれる湖に堆積(たいせき)した地層で、粘土・シルト層と砂層が交互(こうご)に重なる地層です。そのところどころには火山灰層(かざんばいそう)や亜炭層(あたんそう)が挟(はさ)まっています。半島全域におよび約700メートルの厚さがあるといわれています。

粘土

6.窖窯で焼かれた製品

山茶碗(やまぢゃわん)と呼ばれる碗や小皿、そして流し口の付いた鉢、大小の甕や各種の壺が窖窯で焼かれています。壺には広口壺(ひろくちつぼ)、三筋壺(さんきんこ)、短頸壺(たんけいこ)、長頸壺(ちょうけいこ)、鳶口壺(とびぐちつぼ)、玉縁口縁壺(たまぶちこうえんつぼ)など、その特徴によって様々な名前が付けられています。また、寺院で使われる瓦や魚網の錘(おもり)、そして硯(すずり)などもまれに焼かれています。薪から生じた灰が壺や甕の肩に乗り、その表面で融(と)けて自然の釉となったものがあります。透明な緑色の自然釉と褐色(かっしょく)の肌合(はだあ)いから生れる素朴(そぼく)で奥深い美しさは、常滑陶芸のスタートとも言えます。

7.どこで使われたのか

知多半島の沿岸部でも平安時代から鎌倉、室町時代にかけての集落が点々とあり、その遺跡からは窖窯で焼かれた陶器が出土します。そして、そういう遺跡は伊勢湾周辺の平地にもたくさんみつかっています。さらに岩手県の平泉(ひらいずみ)、神奈川県の鎌倉(かまくら)とその周辺、京都、堺(さかい)、さらに広島県福山市の草戸千軒町(くさどせんげんちょう)遺跡や九州の博多遺跡群、大宰府(だざいふ)などなど日本国中の主要な都市遺跡では、知多半島で焼かれた陶器が発掘されています。

8.なにに使われたのか

碗や皿は食器、鉢は調理具として主に使われていました。壺や甕は貯蔵具(ちょぞうぐ)としていろんな物が中に入れられています。経塚(きょうづか) という遺跡(いせき)では紙に写したお経が銅の筒(つつ)に入れられ、その経筒(きょうづつ)が広口壺に入れられ地下に安置されています。火葬(かそう)した人骨が入っていることも少なくありません。そして、最近注目されているのは酒蔵があったと記録されている地域から大量の甕が出土した事例です。鎌倉時代の記録でも酒を造るのに壺がたくさん使われていたという内容の記述があります。酒以外でも絞(しぼ)った油を貯蔵する道具として、さらに藍染(あいぞめ)の道具としても甕が使われたと推測されます。

■経塚

仏教の経典(きょうてん)を地下に埋めた遺跡。末法(まっぽう)の世まで仏教の教えを保存することを目的としてつくられました。鎌倉・室町時代になると陶器を用いることは少なくなります。

9.運搬(うんぱん)について

平安時代の末期に描かれた絵巻物(えまきもの)には京都の市中を背中に大きな壺を背負って運ぶ人の姿が描かれています。そして、鎌倉時代の絵巻物には川船が停泊している市場にいくつもの甕が横になって並んでいる情景も描かれています。周囲に海のひろがる知多半島で焼かれた大きな甕や壺は海川を利用して船で運ばれ、陸地にあがると人力で運ばれていました。

10.窖窯(あながま)から大窯(おおがま)へ

知多半島に広く分布していた窖窯は南北朝時代ころから急速にその数を減(へ)らし、室町時代になると旧常滑町の地域だけに窯が残るようになっています。そして、その窯は戦国時代の16世紀には大窯(おおがま)に改良されていました。大窯は窯の天井が地上に出ていて、窯の天井が高く長大な窯であったと考えられます。しかし、この改良がどの時点で始まったかは、まだ正確にはわかっていません。

11.大窯の製品

甕、壺、鉢が大半で碗や皿類は焼いていません。戦国時代になると鉄砲が普及し、その火薬原料の貯蔵具として壺が使われていたことも考えられます。また室町時代になると、お茶を飲むことが普及します。お茶の葉を貯蔵するのにも壺は使われています。このころの製品には白く濁(にご)った自然釉(しぜんゆう)が掛かっていることがあります。草や葉のついた小枝を燃やすとこういう釉になることが知られています。燃料の供給が窖窯とは違ってきたと考えられます。

12.常滑城主と常滑焼

戦国時代になると常滑には水野氏が登場し、城を構(かま)えるようになりました。三代城主の水野監物(けんもつ)は連歌(れんが)や茶の湯を好んだ人物として知られています。千利休(せんのりきゅう)との交流もあり、常滑焼で作った茶道具がこの頃に生れた可能性があります。茶道の世界で「不識(ふしき)」と呼ばれる水指(みずさし)は南蛮物(なんばんもの)と言われていますが、これは常滑で焼かれたものです。そして、この「不識」水指 こそが水野監物から千家に渡ったとされています。しかし、この「不識」は常滑焼とされなかったことから、常滑では江戸時代の後半になるまで茶道具を作ることが普及しませんでした。