瀬木の亀墓

カメのお墓と六地蔵

瀬木の共同墓地は明治時代前半まで常滑西小学校の西、口田川の南にありました。この墓地は口田川の氾濫や台風等の高潮の被害によって、お墓が壊れてしまうこともしばしばありました。そこで、明治18年(1885)、常滑東小学校(旧常滑中学校)の西側の土取畑の地へ移設されました。ここには鯉江方寿翁によって建てられた市指定文化財の陶製墓標もあります。

カメのお墓

今回のタイトルにあるカメのお墓は共同墓地に入ると六地蔵があり、その左側にひっそりと佇んでいます。お墓の前にある木の看板の文字は薄れてしまい読むことはできませんが、墓石をみると、古い字体で右は「世亀尊」、左は「慈昭殿」と刻まれています。「慈昭殿」は「じしょうどの」と読むのでしょうが、「世亀尊」は瀬木の共同墓地なので、「せきそん」と読むのが正解だと思います。

墓石の奥には二つの看板があり、カメのお墓がここに安置された由来が下の写真のように書かれていますのでここに記します。

瀬木共同墓地の2つの看板

瀬木共同墓地 亀さん縁起

亀さん縁起

大正十一年(1922)初夏、瀬木の海岸に大きな亀が死体で漂流しました。町の古老は此の亀を丁重に瀬木墓地に埋葬し世亀尊の碑を建てました。亀を祈願すると長壽(寿)、勉學(学)、毛筆の上達するいわれにより参拝者は後を絶たず、一時は大賑わいをした事もありました。その後、十年後、再び同じ位の亀が同じ場所に漂流し、慈昭殿の碑を建立して砦様の厚い信仰の的となっております。

瀬木地区 墓地委員

もう一つの板にも縁起が書いてありますが、文字が薄くなってしまいすべてを読むことは出来ません。読める部分から内容を整理すると、①昭和12年(1937)9月に暴風雨があり、以前のお墓があった場所が破損したため、12月に六地蔵を現在の土取畑に改めて安置した事、②昭和11年(1936)にウミガメがまた一匹漂着したので、新たに石碑を造って二つを並べて安置した事、③二つのお墓を安置することに賛同した人から多くの浄財を寄付してもらった事が書かれていました。

瓦で造られたカメの置物2(真上から)

瓦で造られたカメの置物1(横から)

二つの看板には書いてありませんが、「慈昭殿」の左にはやきもので造られたカメの置物があります。顔や手足は壊れていて残っていませんが、甲羅があり、舟をこぐ櫂(かい)のような手足からウミガメだということがわかります。興味深いのは常滑焼の甕や土管とは違い、瓦のようなやきもので造られていることです。今では随分と少なくなっていますが、戦前くらいまではどの地区にも瓦屋がありました。もしかすると、瀬木の瓦屋で造られたものかもしれませんが、瓦職人の作というよりは素人が造ったような感じがします。残念ながら裏にも名前は書かれていませんでした。

日本のカメは「亀は千年、鶴は万年」と言われ、長寿や夫婦円満の象徴となっています。カメが登場する昔話といえば、誰もが浦島太郎を挙げるほどに古来より多くの人に愛されてきました。常滑焼では上村白鷗(かみむらはくおう)の孫にあたる上村信吉(かみむらしんきち)が制作した「亀の置物」や急須の名工の一人に数えられる初代松下三光が制作した「亀の香合」などが有名で、江戸時代の頃から題材として造られてきました。

二匹のカメのお墓、そして人知れず造られた瓦製のカメも同様に瀬木地区の人々によって大切に祀られ、今も信仰の対象となっています。

上村信吉の亀の置物(写真中央)

初代松下三光 亀の香合