常滑を詠む 応用知識 常滑の三筋壷

中世の常滑焼は山茶碗や小皿といった生活雑器とともに壷や甕といった大型貯蔵容器が焼かれています。そのなかでも三筋壷(さんきんこ)と呼ばれる3本の筋が入った高さ約25㎝の中型の壷が有名です。

三筋壷の名称を最初に使用したのは沢田由治氏で、昭和28年(1953)の『陶説7』でした。沢田氏は常滑市立陶芸研究所(現在はとこなめ陶の森 陶芸研究所)や常滑古窯調査会の中心的メンバーで、いわゆる古常滑研究の重鎮ともいえる存在でした。

沢田氏による古常滑の研究成果は、昭和34年(1959)に刊行された『世界陶磁全集 第2巻』に収められた「平安-室町の常滑」にまとめられています。三筋壷については、「高さ8寸、胴径6寸、口径4寸、底径3寸ほどの古常滑の壷には、ほとんどのものが胴部に三筋の陰線が彫られているので三筋壺と称している。」とし、「中には四筋のもの筋のないもの等があり」とそのバラエティーにも注目しています。さらに図版解説では、「古常滑は経塚からの出土事例が多く、次いで神社、墳墓、寺院である。曳(ひ)かれている三筋の線もこれらの用途に当たる意味を持っているもので恐らくは敬三宝、三界、天地人等の何れかの表現であろう。」とし、三筋壷の用途とその文様の解釈をおこなっています。翌年に刊行された『名古屋周辺の古陶』の中では、三本の筋が入った文様から空風火水地の五輪表現を推測しています。沢田氏によるこの発想は器体に付けられた3本の水平線で胴の部分が四分割され、口頸部を加えて壷が5つの要素から構成されるというところからきています。

常滑市柴山古窯出土の三筋壷

沢田氏が提唱した五輪思想に対して、名古屋大学の楢崎彰一先生は木製桶の箍(たが)を装飾化したものであったという説や中国陶磁の模倣説を発表しています。中野晴久氏は筋が付けられた背景には、経典や遺骨を納める仏塔との密接な関係の中で三筋壷が成立した可能性を提起する等、研究者によって複数の見解が示されています。

中世に作られた三筋壷を詳細に調べると、壷そのものはロクロではなく、紐作りでつくられており、ヘラを用いて成形されています。肩から胴部に付けられた筋は、①ヘラや細い棒のようなもので鋭く1条の筋がつけられたもの、②細い竹を半分に割って、その割れ口を用いて2条の筋が付けられたもの、③櫛のようなもので、筋が3本の複数条並ぶものがあり、これらはロクロを使って水平に付けられています。

これまでに見つかっている三筋壷の大部分は発掘調査の成果から、1150年から1200年までのおよそ50年が中心で、13世紀に焼かれた三筋壷は数例を数えるほどに生産が激減しています。知多半島を中心に生産された三筋壷は船で運ばれ、東北地方の奥州平泉や九州など本州を中心に広い範囲で見つかっています。その使用方法は経典が埋納された経塚や火葬した人骨を納めた蔵骨器といった特殊な利用法が指摘されていますが、近年の調査で中世の集落から出土する事例も報告されています。

写真の三筋壷はとこなめ陶の森の所蔵品の一つで国の重要有形民俗文化財の内の一つです。口縁や胴部の特徴から12世紀後半のなかでも終り頃に作られたと考えられます。口縁の部分から胴にかけて薄い緑色の自然釉がかかっています。これは窖窯(あながま)で焼いたときの燃料として使用された薪の灰が焼成中に降り、それが融けて釉となったものです。中世の常滑焼は焼き締めた陶器で施釉はされていませんが、同じものが二つとない自然釉の景色が見どころといえます。